「こけたら、立ちなはれ 立ったら、歩きなはれ」(松下幸之助)
「こけたら、立ちなはれ
立ったら、歩きなはれ」
もちろん松下幸之助翁の言葉ですが、
松下幸之助さんに直接教えを受けた最後の人と言われる、
江口克彦先生がこの言葉について解説されています。
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こけたら、立ちなはれ!
立ったら、歩きなはれ!
人生というものは、おおよそ、
失敗の連続、悩み苦しみの連続。
それが当たり前だと思う。
なにせ、明日がどうなるか。
お釈迦様でも、神様でもない人間に、
未知の明日が分かるはずもない。
人生は、まさに暗闇を
手さぐりで歩くようなものだ。
だから、一生懸命、生きていても、
歩いていても、暗中模索の人生。
石につまずくのも当たり前、
水溜りに落ちてしまうのも当たり前。
壁にぶつかるのも当たり前。
むしろ、上手くいく、
成功することのほうが、
稀有なことなのだと思う。
ゆえに、失敗したから、壁にぶつかったから、
水溜りに落ちたからといって、
なにも失望する必要もなければ、
まして、絶望する必要など、
さらさらない。
当たり前のことだ。
もちろん、つまずかず、落ちることもなく、
ぶつかることもなく、思うところに辿り着く、
成功することもあるが、
それは、むしろ、たまさか、運がよかった、
まさに、「盲亀の浮木(もうきのふぼく)※注 参照」
の例えの通りであろう。
だから、石につまずき、水溜りに落ち、壁にぶつかって、
失敗しても、なにも絶望することはない。
人生、道はいくらでもあるものだ。
ただ、暗闇の中で、なぜ、石につまずいたのか、
なぜ、水溜りに落ちたのか、なぜ、壁にぶつかったのか。
しばし考える。しばし反省をする。
その「考えてみること」が大事。
その「反省すること」が大事。
そうして考え、反省し、
その失敗を踏み台にして、
次に成功すれば、
石につまずいたことも、
水溜りに落ちたことも、
壁にぶつかったことも、
失敗とは言えないことになる。
だから、もし、つまずいたこと、落ちたこと、
失敗したことを反省し、踏み台にして、
結果として、思ったところに辿り着き、
成功すれば、人生において、
失敗などあろうはずがないと
言えるかもしれない。
事実、松下幸之助さんは、
ほとんどすべてにおいて成功している。
もちろん、それは、
失敗が絶無だということではない。
幾たびも幾たびも失敗している。
しかし、幾たびの失敗も反省し、
新たな歩き方を考え、
その失敗を踏み台にしたから、
結果、成功したということである。
言葉通り、
「転(こ)けたら立ちなはれ。
立ったら歩きなはれ」
を実践したからである。
坂本龍馬が
「人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ。」
と言ったというが、正鵠(せいこく)を射ていると思う。
明日どころか、一寸先も
闇の道を歩いている我々は、
つまずき、ぶつかり、
落ちることが当たり前と思い定めて、
反省しつつ、その失敗を踏み台にして、
新たな歩き方を考え、成功の、
納得の人生を歩いていきたいと思う。
要は、失敗しても、
絶望することはないということ。
「絶望の淵」は、案外と浅いものだということである。
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※盲亀の浮木(もうきのふぼく)
=出会うことが甚だ困難であることのたとえ。
また、めったにない幸運にめぐり合うことのたとえ。
(『雑阿含経』 『涅槃経』)