「みてござる」 一人の貧しい少年が、75年間お守りにした言葉
夫の西端行雄さんと共に、ニチイ(現イオンリテール)を創業し、二人三脚で発展させた西端春枝さん(故人)。
真宗大谷派の僧侶でもあった春枝さんは、学生時代、通っていた大谷学園の校長先生から
ある一つの言葉を繰り返し教えられ、生きる指針になったといいます。
私は大谷学園という仏教の学校を出ております。
当時、左藤義詮(ぎせん)という校長先生がおられて、私が大谷にいる間
、繰り返し繰り返しおっしゃっていたのが「みてござる」という言葉でした。
左藤先生は立派なお寺の住職さんで、後に大阪の知事になられた方ですけれども、ある時大阪・船場の問屋さんにお説教に行かれるんですね。
その問屋の玄関に立った時、大きな扁額があり、平仮名で「みてござる」と書いてあったらしいのです。
上へ上がられたら応接間にも「みてござる」、お手洗いにも「みてござる」、仏間にも「みてござる」の額が飾ってある。
それで左藤先生がご主人に「珍しいですね。扁額(へんがく)はよう読まない難しい字が書かれてあるものなのに」
とお尋ねになったら、ご主人は次のような話を始められたのだそうです。
その方のお父さんは飛騨高山のご出身なのですが、小さい時に父親を亡くされて貧乏のどん底でね。
お母さんが「どうしてもおまえを養えないから」とおっしゃって、13歳で大阪に奉公に行かれるのです。
いよいよ明日は見知らぬ大阪に出発という日の晩、二人ともなかなか眠れない。
お母さんが「じゃあ、お話ししようか」と夜が白むまで子どもにお話をされました。
「貧乏でおまえに何もしてあげられなかった。何か餞別をしたいんだけど、それもできない。
物を買うお金もないので、火にも焼けないし水にも流れない言葉をあなたに贈ります」
そう言ってお母さんが平仮名で書いて、少年に手渡されたのが「みてござる」という言葉だったんです。
少年はその言葉を持って大阪に出るのですが、やはり辛い船場でのご奉公があって、
ある時、淀川の堤防を歩きながら「辛いなあ、お母さん恋しいなぁ。この川にはまれば楽になれるのに」と思っていたら、
ふと「みてござる」という言葉が頭に浮かんで少年を引き戻すんですね。
それからも、先輩からいじめられたり、いろいろ辛い体験をされるのですが、
そういう時のお守りが常に「みてござる」だったといいます。
この方はやがて船場で店を張るまでに成功し、75歳でお亡くなりになられます。
臨終の場に息子たちや番頭さんを集めて「いろいろお世話になりました。
私はおかげさまで成功できたと思うけれども、それには、やはり目に見えない私を引っ張ってくれるものがあった。
それが『みてござる』という言葉なんや。どうか子々孫々に伝えて長くわが家の家宝としてほしい」と言われたというんです。
それで「みてござる」という言葉が部屋に飾られていた。
私は左藤先生に7年ほどお世話になりましたけれども、法話の時間に「みてござる」
という言葉を、先ほどのお話以外にも聞かされたのでした。
だからこそ皮膚の中から入ったのかなと思います。
左藤先生にしてみたら「言わずにおれない」というお気持ちだったのでしょう。本当の教育者でした。
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皆さんも聞いたことがある言葉だと
「お天道様がみている」でしょうか。
ピシッと背筋が伸びる言葉です。