「大人が壁になる」(子育てシリーズ番外編)
皇學館大学教授の松浦光修さんの過去のメールマガジンに
子育てに関する考えさせられる話が出ていましたので紹介します。
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「入門と破門のできる師弟関係」
今は物分りの良い親や大人が多すぎるんですよね。
「あなたの好きにしなさい」って。
けれどこの言葉ほど子供たちを
途方に暮れさせる言葉はないです。
親は「こういう生き方をしなさい」と
自分の信念を示すべきです。
それを子供が聞かなくてもいいんです。
「それは違うんじゃないの!」とドンとぶつかる中で、
子供は自分なりの方向性を見つけます。
つまり、「大人が壁になる」ということです。
むやみに口を出したり手を出したりしないで、
ちゃんと壁になって、子供にぶつからせてみる。
大人自らが自分の生き方を通して壁になるのです。
すると、そういう大人に反発を感じたり、尊敬を感じたりしながら
子供は自分の生き方をつくっていくのです。
現代は大人が壁になれていません。
ぶつかってきたらすぐに引いてしまうので、
子供にとって手ごたえがないんです。
手ごたえのない大人ほどつまらないものはありません。
例えば暴走族は阻止してくれるものがないから
どんどんスピードをあげていく。
たぶん本当は、阻止してくれる誰かが欲しいんですよね。
“まだ誰も止めてくれない”と思いながらスピードをあげる。
そこへ警察が止めにくると、彼らは喜んで警察と戯れる。
今一番問題なのは、
子供のことを真剣に受け止める大人が、あまりいないこと。
親は教師に責任転嫁し、教師は親に責任転嫁している—。
これはもう、教育システム全体を
一から考え直していかなくてはなりません。
私の考える新しいシステムは、
ごく簡単なことで、「入門と破門のできる師弟関係」です。
江戸時代の日本は世界一の識字率を持つ最高の教育機関でした。
武士はもちろんのこと、商人も農民も、
「読み書き算盤」を勉強しなくては暮らしていけない。
だから誰もが学門を尊重していたんです。
学びたい者は「入門させてください」と頼み、
先生は「よし分かった。俺のところで勉強するならしっかりやれ」と
許すけれど、怠けていたら「破門」の権限が師にあるんです。
弟子は先生を選べ、先生も弟子を選べる。
そこにものすごく内実のある師弟関係が築かれていた。
それが江戸時代の教育システムです。
現代では「塾」にこのシステムを見ることができますね。
つまらない授業をしていたら生徒が来なくなって、
塾そのものが潰れてしまう。
だから塾の先生はそうした危険に晒されながら
子供たちの学力をどんどん伸ばす教え方を工夫します。
しかも躾(しつ)けまでしているところもある。
教えるほうも学ぶほうも真剣だからイジメも起こらない。
ただ、そういうふうに教育全体を“民営化”すると、
どうしても落ちこぼれる子が出ます。
そういう場合にこそ、国が責任をもって面倒をみる
といったシステムがあればフォローできます。
また、自分が学びたい師を選べるようになるまでは
親が選んであげないといけない。
選ぶ能力を身につけさせる責任は親にあります。
そうすることで初めて、
子の教育に対する責任感が親に生まれてくるのです。
家庭教育の基本は、親はまず自分が黙ってやってみせて、
それを見習わせてゆくことです。
自分の信じていることを言葉でなく、行いで伝えていく。
自分が本気で信じていないのに、
「おまえは信じろ」というのは無理です。
子供にとって酷。
子供たちは、最初は期待に応えようと頑張りますが、
たぶん「いい子」を演じるうちに途中で疲れてしまって、
今度は逆回転をはじめ、様々な苦悩が生じてくることに
なるんじゃないでしょうか。
結局、何が最も大切な教育かと言ったら、
「感謝」の心を育てることに尽きると思うんです。
親は子に、この国に生まれたこと、
この父母のもとに生まれたこと、
そして今、自分がこうして生きていること、
などへの感謝の心を育てる。
そして次は「報恩」ということですよね。
報恩の行ないがともなわない「感謝」は偽者です。
「恩」をどこに返すか。それは抽象的なものではなく、
身近にいる人々に具体的な形をもって示してゆく。
それがひいては神様に恩を返すことになるのだと思います。
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考えてみると私も「壁」になれていません。
「感謝」はもっともっと伝えなければならないですね。