『真の教育とは、一対一で行なわれるもの』(志賀内泰弘)
滋賀県で高校教諭をしている北村遥明さんは、勉強会「虹天塾近江」を主催し、
その講演録などを掲載したニュースレターを発行しています。
今日は、その北村さんの「ちょっといい話」を紹介させていただきます。
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「最初に学んだ教育の真髄」北村遥明
二十四歳の四月。初任の私の担当は一年生だった。
やんちゃな子たちが集まったその高校では、すぐに授業の雰囲気が崩れていった。
そして、ついにこんなことが起こった。
男子生徒Kの私語がひどくて、何度注意しても直す気配がないのだ。
私はKに近寄っていく。
「もう来んでいいって!」
「今授業中やぞ!ちゃんとやれよ」
「うるさいなあ」
「調子に乗っていたらあかんぞ!」
新人教師の私はぶち切れそうになった。
このやりとりを聞いていたある生徒が言った。
「先生、こいつ一発殴っといたほうがええで」
私はその声に拳が少し動いた。
けれども気持ちを落ち着かせた。
いや、何とか我慢した。
やっと授業が終わり、黒板を消して職員室に戻った。
すると、先ほどKが生徒指導主任のA先生に何か話している。
私に気づいたKが言った。
「あの英語の先生や。さっき殴られそうになった。何とかして」
—はあ?何を言ってるんや。
私の顔は紅潮していた。
その後、A先生はKを生徒指導室に連れていった。
私はA先生が上手にKを叱ってくれていると思い、少し気持ちを落ち着けた。
十分くらい経つと、A先生は私を呼んで、小声でこう言った。
「北村君、まず拳を上げたことを謝たってくれ」
「えっ!拳を上げたって・・・、五センチほどですよ。それにKがちゃんとしていなかったのに・・・」
「北村君の気持ちもわかる。でも、今はわしの言うとおりにしてくれ」
A先生はその学校の生徒指導の神様のような存在だったので、
苦虫をかむような気持ちで、「わかりました」と言った。
A先生は続けた。
「それでな、謝ったあとに、Kにどんな学校生活をこれから送って欲しいのか、北村君の想いを伝えたってくれ。
実はKもそうやけど、ここの学校に入ってくる子はな、ほんまに勉強ができへんねん。
勉強もスポーツも何もかも中学校のときに人に認められたことがない子たちばっかりや。
中学時代も悪いことをしたら当然怒られたやろうけど、なかには放っておかれていた子たちもいる。
あの子たちはかわいそうやねん。そういう子たちの立場になって、話したってくれ」
私は全然わかっていなかった。
そのあと、何とかKに想いを伝えた。
でも、若い私にとっては、「必死に修羅場を乗り切った」というのが正直なところだった。
それから二週間が経ち、一年生最初の中間テストが迫ってきた。
学年で放課後に勉強が苦手な生徒を呼んで、個別学習会を計画した。
そのなかにはKもいた。
私はKの前に座って言った。
「ここはわかるか?」
「こういうこと?」
「違う違う、ここはこうやってやったらいいねん」
「わかった・・・これでええんか?」
「おお!正解や!」
「ほんまに!俺、もう一度やってみるわ」
そんなマンツーマン授業が二時間も続いた。
「すごいなあ、二時間も勉強できたやん!」
彼はニコニコした表情だった。
そして最後は、「先生、ありがとうな」と言って帰っていった。
このことをA先生に伝えると、こう言われた。
「普段やんちゃな子らはな、友達の前で格好悪いとこ見せられへんねん。
だから、教室とか友達がいるところではあえて反発した態度を見せてくることがよくある。
でもな、一対一で接してみると全然違う姿を見せてくれることがあるんやで」
「はい、かわいらしい子どもと一緒でした」
「やっぱりそうか。勉強はできへんけど、一人の人間としてちゃんと向き合ってくれる教師には
ちゃんと心をひらいてくれる。生徒はそういうところをちゃんと見ているんや」
真の教育とは、一対一で行なわれるもの。
でも、一対一で関わるのは時間がかかり、けっして効率的ではない。
でも、一対多では伝わらないことがある。
これが、二十四年前、高校教師として出発した矢先に私が学んだことである。
皆さんは最近、誰とどんな一対一で向き合う時間がありましたか?