いつも「楽しさ」が最優先というわけではない(平光雄)再
『悩んでいた母親が一瞬で救われた子育ての話』平光雄著という本から一つ紹介します。
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いつも「楽しさ」が最優先というわけではない
「学校がすごく楽しいって言っています!」・・・・・・・・懇談会などで親からこういわれると、うれしくないことはないのですが、ちょっと複雑な気持ちにもなりました。
そして、「私はあなたのお子さんを『楽しませる』ために日々指導しているんじゃないんだよ」と小理屈を言いたくなるのです。(言ったことはありませんが〈笑〉)。
こういう親は子どもが、仮に「学校が楽しくない」とでも言いだしたら、その原因、犯人探しに躍起(やっき)になる可能性があるということですから。
いつの間にか、日本は「楽しいか」「楽しくないか」が最大の判断基準となり、すべてのことを「楽しさ」という尺度で判断するような風潮になってしまった感があります。あたかも「楽しい教」が蔓延(まんえん)したかのようです。決して大げさではない話です。大の大人から子どもまで、皆、「楽しさ」を第一に考えます。
終業式などの教師の講話でも親子の会話でも、「楽しい◯学期でしたか?」が定番と言ってもいいでしょう。
もちろん、「楽しくない」よりはいいでしょう。それは当然です。
しかし、いの一番に「楽しかったか?」と聞くことは、それが最大価値なのだということを明に暗に示していることになるのです。
学校は「成長」のために通うところです。「楽しみ」のために通うところではありません。楽しみのためなら遊園地に行けばいいでしょう。入場料と引き換えに「楽しさ」をいただく、ここで楽しくなかったら詐欺(さぎ)のようなものですね。
当たり前のことですが、学校は違います。万が一、叱られてばかりで、決して「楽しく」なかったとしても、それで「成長」したなら、大いに価値のある◯学期だったということなのです。成長と楽しさは、時に(近視眼的には)相反する場合もあります。
それなのに「楽しい◯学期でしたか?」と親や教師が、いの一番に問えば、「(成長したけど)楽しくなかった」という子は、「よくない◯学期だったんだ」と思ってしまうことにもなりかねません。
「楽しい◯学期だった?」「学校、楽しい?」は、ただの問いかけではありません。価値を含んだ問いかけなのだと認識しなくてはいけないのです。
ならば、どう問えばいいのでしょう。
小さい子なら「◯学期、たくさんのことができるようになった?」
高学年なら「成長できた?」というように問うのがよいでしょう。
もちろん、何かできるようになれば(今ではなくても)「楽しい」ことだし、成長したなら、結果として楽しいと言えるはずです。
繰り返しますが、どちらも「結果としての楽しさ」であり、「楽しさ」が第一義ではないのです。
「楽しくなけりゃ○○でない。」「楽しくなけりゃおかしい。悪だ。」というような趣旨のコピーも出回っています。それは、商業ベースでの言であって、教育にはあてはまらない話です。
まずは、たとえ苦しくとも成長を、そしてそれに伴う「楽しさ」をこそ目指すのが本来なのです。
安易に、いつも、「楽しい?」「楽しかった?」と問うのは控えるべきでしょう。